福澤(シマ)アクリヴィのCDに寄せて | |
長木誠司 | |
揺籃期の日本の洋楽界に来訪して多くの業績を残し、日本の我々に計り知れぬ 恩恵を施してくれた外国人音楽家は少なくない。戦前期からこちらにかけてだけ
でも、指揮者のプリングスハイム、ローゼンシュトック、グルリット、ピアニス トのクロイツァー、シロタ、ヴァイオリニストのモギレフスキー等々、何人かは
すぐに思い浮かぶ。日本にやってきた事情や境遇はそれぞれ異なり、腕前のほど もさまざまであったにせよ、ようやく一人前になり始めた頃に過ぎなかった同時
代の日本の楽檀にとっては、かけがえのないものを残してくれた恩人たちであっ た。 終戦後に来日した福澤アクリヴィは、上記の音楽家たちのいずれとも事情は異 なるが、戦後の洋楽界に大きな足跡を残したという点に関してはけっして無視で きない存在である。1916年12月12日、トルコ領コンスタンチノープル(現イスタ ンブール)で、ギリシャ人の両親の間の長女として生まれた彼女は、11歳にして テサロニキ音楽院ピアノ・コンクール優勝の経歴を持ち、早くから才能を現して いた。その後、イタリア人カロリーナ・カパッソについて声楽を学び、スイスの ローザンヌ音楽院で過ごしたあと、1932年にはヴィーンでマックス・クラインに 師事してドイツ・リートを学んだ。1937年にはパリ音楽院に移り、各種の賞を受 ける一方、院長アンリ・ラボーの推薦によってラジオ・パリ、ラジオ・ストラス ブール等の放送演奏会に登場。フォーレやデュパルクの歌曲を歌っている。 留学中の福澤進太郎と出逢って、1942年に結婚した彼女は、終戦後の1945年に 夫の母国である日本にやって来ている。戦後の混乱期を経て、ようやく音楽界も 復興し活況を呈し始めた1949年3月、福澤アクリヴィは、日劇における東宝交響 楽団(現・東京交響楽団)による定期演奏会(近衛秀麿指揮)で、グルック作曲 の《オルフェオとエウリディーチェ》のエウリディーチェ役により日本デビュー を果たした。その後、フォーレやプーランク、ミヨーといった近代(当時、その 一部はまだ〈現代〉であったろう)フランス歌曲を中心にして多くのリサイタル を開く一方で、近衛管弦楽団とマーラーの交響曲第4番を共演したり、藤原義江 とオペラ《蝶々夫人》で共演したりといった活動を展開しつつ、演奏会や放送を 通して、代表的な作品の日本初演をいくつか行った。そのなかには、プーランク の《動物詩集》(1954年11月23日)、ラヴェルのオペラ《スペインの時》(1955 年11月22日、NHK第2放送)やブリテンの《イルミナシオン》(1955年)などが あるほか、日本人作曲家の初演も含まれている。例えば、北園克衛の詩による柴 田南雄の《記号説》は、斎藤秀雄指揮による東京交響楽団と彼女によって初演さ れている(1954年5月13日)。フランス歌曲による演奏活動に関しては、このCD に収められているフォーレやドビュッシーなどの録音が物語るとおりなので、そ れ以上の説明は不要であろう。素直に耳を傾けていただきたい。 |
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福澤の活動のなかで、いまなお語られてしかるべきは、1954年に行われたシェ ーンベルクの《月に憑かれたピエロ》の日本初演であろう。このCDに収められて いるのは8月3日に行われた放送初演の方であるが、同じメンバーでの公開演奏 会が同年10月9日に〈実験工房〉主催の演奏会として山葉ホールで行われてい る。作曲家、演奏家、造形芸術家、照明家などが集まって1951年に結成された、 日本初の総合芸術的な団体である〈実験工房〉に関しては、ここで多く語る余裕 はないが、シェーンベルク特集という形で行われたその演奏会(《管楽五重奏 曲》の初演も同時に行われた)で、まだ日本に馴染みのない〈シュプレヒシュテ ィンメ〉を披露した福澤アクリヴィの演奏を、いまこうして聴くことができるの はこの上ない喜びである。演奏会に先だって放送用になされたこの録音に聴く限 り、シェーンベルクの本格的な受容の第1歩が、福澤のおかげでかなりの水準で 行われたことが分かる。もちろん、当時の名手を揃えたアンサンブルも、一聴に 値する卓越した演奏を聴かせている。指揮の入野義郎(朗)は、武満徹や湯浅譲 二といった〈実験工房〉所属の在野の作曲家たち(個別に別系統で十二音技法を 摂取していた)からすると、アカデミックな部分を代表するライヴァルのような 存在であったろうが、ここではドイツ/オーストリア系の〈正統的〉十二音技法 を受容した代表格である入野に敬意を表して指揮を任せたようである。〈音楽学 校出身者のアカデミズム〉対〈在野の民族主義〉という戦前からの二項対立は、 実験工房やその後の20世紀音楽研究所の活動を通して克服されてゆくが、まさに その現場をはからずもこの演奏は証言している。シェーンベルクの本格的な演奏 という記録を超えて、いろいろな意味で興味深く、また貴重な録音だと言えるだ ろう。 | |
長木誠司 東京大学教授------- Profile |
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