美しき星の下に
 (口述)



 1916年12月12日、トルコ領コンスタンチノープル(イスタンブール)にギリシャ系両親の長女として生まれる。父は南ギリシャのスパルタ近郊で生まれたが、幼いときに孤児となり、当時コンスタンチノープルギリシャ正教会の神父であった叔父に引き取られて養育された。(コンスタンチノープルはギリシャの植民市ビザンチウム以来、多くのギリシャ人が居住しており、トルコの支配下にあっても、一応の信教の自由が認められていた。ギリシャ人のほかにも、フランス人をはじめとして多くの居留民がおり、一種の国際都市の様相を保っていた。)
 母は印刷業を営むかなり裕福な家庭に生まれ、フランス系ミッションスクールで教育を受けたが、手先が器用で刺繍、その他手芸を好み、父親が事業に失敗してからは、刺繍、裁縫などで家計を助け、そんな関係で当時、絹糸、組紐などの商いをしていた青年時代の父に出合い、恋愛結婚をして私が生まれたわけである。



第一次大戦で母国に帰り、5歳からピアノを

 若い両親は共稼ぎで暮らしも楽ではなく、故国ギリシャが連合国軍側に参戦してトルコと敵対するに至ったこともあって(当時第一次世界大戦中)1917年、まず父が国境を越えて母国ギリシャに戻り、サロニカ(テッサロニキ、エーゲ海に面するアテネに次ぐ第二の文化都市)に織物業の開店準備をする。
 数ヶ月後、まだ赤ん坊の私を抱いた母もサロニカにたどりつき、ギリシャでの生活が始まる。相変わらず共稼ぎで、父は毎日店に行き、母も大きなドレスメーカーに通って仕事をするため、私は朝から夕方まで近所の私設託児所に預けられた。
 ところが、この託児所が無責任で、一日中私はまったくほったらかしにされていたらしく、親切な近所のおばさんが見かねて母に忠告し、母は私のためにドレスメーカー通いをやめて、独立して家で仕事をするようになった。
 幸いにお客に評判がよく、繁盛するようになり、お店の規模も次第に大きくなって行った。父の織物業も好調で、暮らしも楽になり、私が5、6歳のころ、音楽好きの両親は私のためにピアノを買ってくれた。
 父はコンスタンチノープル時代に、神父さんたちから読み書き、算数を習ったほかは、ほとんど正規の学校教育を受けなかったが、非常に向学心の強い、まじめな人で、そのころシェークスピアを原語で読むためだといって英語の勉強を始め、母にからかわれたりしていた。
 私がピアノのレッスンを受け始めたのもそのころである。私は父に、ピアノをしっかり勉強しなさい、中途半端ではだめだ、何ごとも徹底的にやりとげなければいけないと、よくいわれたものである。



手が大きくなかったのでピアノから声楽へ転向

12歳ごろから学校の授業のない水曜の午後と土曜日にサロニカ音楽院に通い、ピアノやソルフェージュに本格的に打ち込んだ。
 1932年サロニカ音楽院ピアノコンクール第一位を得たが、手が余り大きくないこと、声楽に将来性があると先生方にいわれ、私自身も大いにひかれていたので、ひそかに声楽のレッスンも受け始めた。
 最初、父は、嫁入り前の女の子がステージで歌を歌うなどとんでもないことで、絶対に許せないというような偏見をもっていて、私は大いに苦労したものである。
 しかし、ガンコな父も、その後少しずつ理解を示すようになった。声楽は、当時サロニカ駐在イタリア領事の妹で、テトラツィーニのお弟子さんのカロリーナ・カパッソ女史の教えを受けることができた。
 1934年、母と共にウィーンに行き、マックス・クライン教授についてドイツ・リードの勉強をする。
 1936年、父、永眠。子供のころ、父にピアノをしっかり勉強せよとよくいわれたが、ピアノから声楽へ移ったとはいえ、一貫して同じ音楽の道を、中途半端でおしまいにせずに、ただひたすらに切り開いてきたことを、父も喜んでくれていると信じている。



パリ国立音楽院在学中にラジオに出演

 1937年、フランス留学、パリ国立音楽院に入学する。声楽科教授、セズブロンヴィザール女史に指導を受ける。
 1938年、アンリ・ラボー院長の推薦により、ラジオ・パリ、ラジオ・ストラスブール、ラジオ37(パリ)等の放送演奏会に出演し、フォーレやデュパルクの作品を歌う。
 同年ヴォカリーズ第一位メダル受賞。1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次大戦が始まる。1940年、オペラ・コミック第一位褒状、声楽第二位賞、その他を受賞し特待給費生となる。
 1940年、ドイツ軍マジノ線突破、パリに迫る。大多数のパリ住民は南仏に避難したが、私は脱出の機を失い、パリに残ることを余儀なくされた。
 やがてドイツ軍パリ入城。このときパリに残り、コンセルヴァトワールの5階に住んでいたアンリ・ラボー院長は、国立音楽院がドイツ軍によって徴発占領される危険に対処するため、何としても授業を継続する方針を立て、私の属する声楽科では、ただ一人パリに残ったクレール・クロワザ教授(有名なメッゾ)の下に、学生としては私のほかに2、3人が動員され、いろいろな困難にもめげずに授業が行われたのである。
 コンセルヴァトワールがドイツ軍占領下にも干渉を受けることなく存続できたのは、このときのラボー院長、クロワザ女史、その他の人々の熱意によるものであったことも忘れられない思い出である。



第二次大戦下のパリ、聖カトリーヌの日に

やがて、南に避難した人々も少しずつパリに戻って来たが、その年の11月25日の聖カトリーヌの日に、私は私の夫になる人に初めて出合った。(聖カトリーヌの日は、25歳になった未婚の娘の祭り日で、そういう適齢娘をカトリネットと呼ぶ)コンセルヴァトワールのカトリネットたちが中心になってパーティをすることになり、同級生古沢淑子さんの知人で作曲家の倉地緑郎さん(夫の中学時代からの友人)に誘われて、彼もその集まりに来たのである。
 夫は慶應大学法学部政治学科出身で、パリ大学に留学していたが、戦争が始まってからは嘱託として日本大使館に勤めていた。
 1942年始め、コンセルヴァトワール交響楽団のシャイヨー宮演奏会に、独唱者として選ばれたが、生憎病気のため残念ながら出演できなかった。3月に結婚。1943年6月、長男、幸雄誕生。



パリ、ベルリン、そして米軍の俘虜となる

1944年、米英軍ノルマンディー上陸。パリに迫る。日本大使館の命により、在仏日本人全員ドイツへ避難することになる。
 最後の列車で婦女子老人ベルリンに向う。途中、英米軍機によって爆撃、機銃掃射を受けながらも、全員死傷なくベルリン到着。成人男子は数日後に車に分乗し、多くの危険を乗り越えて、これも全員ベルリン到着。(運転の訓練を受けた夫は、厳しい燈火管制下のパリ・ベルリン間を、昼夜兼行で走破した。列車で幼い幸雄と共に、先に避難していた私は気が気でない幾日かを過ごしたものである)
 当時、連合国によるベルリン爆撃は、連日連夜苛烈を極め、数週間後、全員が相当遠距離のベルリン北方郊外に疎開、勤務者のみマイクロバスで出勤することになる。
 1945年、西よりは米英軍、東よりはソ連軍に挟撃され、ベルリン陥落を前にして在留日本人は砲火の中を南方へ避難。
 現オーストラリア領ザルツブルグの南の山中バードガシュタインに着く。
 5月、ドイツ降伏。6月米軍の俘虜となり収容される。



ルアーブルからニューヨーク、シアトル、そして日本へ

7月米軍輸送機によってザルツブルク空港からフランスのルアーブル港付近に運ばれ、数日後、同港より米軍輸送船サンタ・ローザ号(病院船にあらず、太平洋戦線へと送られる米軍将兵満載の輸送船)でアメリカへ向かう。大西洋上で広島・長崎への原爆投下を知らされる。やがてニューヨーク港着。
 船倉の小窓から遙かに自由の女神を眺めるのみ。翌日、特別仕立ての列車でペンシルバニア山中の元米軍通信学校跡に収容され、数日後、8月15日を迎える。
 11月中旬、列車で大陸横断、太平洋岸シアトルに向かい、シアトル港より、また軍輸送船で荒天のアリューシャン列島沿いの北洋に航路をとり、12月5日、浦賀に送還される。
 こうして夫の母国、戦後日本での生活が始まる。


『東京音楽大学ニュース19』 1982年 夏季号より

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